豊地神社(とよちじんじゃ)三重県松阪市嬉野下之庄町275

豊地神社(とよちじんじゃ) 三重県松阪市嬉野下之庄町275

この神社は、伊勢自動車道・嬉野PAの北1km程の辺り、下之庄町の街外れに鎮座しております。

御祭神: 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)・猿田彦命(サルタヒコノミコト)・伊豆速振命(ハヤタマオノミコト)・豊受大神・速玉男命・伊弉冊命・事解男命・軻遇突智命・大日孁命・五男三女神・大山祇命・波迩安姫命

建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、日本神話に登場する神。


由緒について


大正四年四月調査の『豊地神社由緒』によれば、

大字下之庄字居屋敷二七五番地(現在地)に、下之庄若干戸の産土神として八雲神社が祀られてあったという。「八雲神社ハ、創立等不詳ス多気国司北畠氏ノ祈願所ナリト云フ又八田城圭大多和家ヨリモ度々祈願アリテ広大美麗ノ社ナリ別当寺アリ園明山長昌寺ト云フ寺ノ僧久シク社務ヲナス享保年中(一七一六~三五)此事止ム」以上は古老の□碑を記述したもののようであるが、明治五年には村社となっている。

当社は、三浦義明二代の孫従五位三浦五郎左門盛時一一代の孫大多和盛成北畠家城主の幕下に所属したが、永禄年(一五五八~六九)中に国司具教卿は伍長に随順した。次いで八田城も落城し、遠祖三浦盛時数代の孫三浦元朴が下之庄に移住して社前に石燈籠を建立している。「寛政己酉年(一七八九)」の銘がある。後年、御神徳の尊いことが神祗管領のもとに達し、享保四年(一七一九)一二月、神祇管領兼敬卿を通じ正一位が贈位されており、位階奉呈状と祝詞が残されている。
(三重県神社庁公式サイトより)

住所:三重県松阪市嬉野下之庄町275

【率川神社】(いさがわじんじゃ)奈良市本子守町

【率川神社】(いさがわじんじゃ)は奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により奉斎したとされ、奈良市最古の神社という。仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられている。治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失]。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。そのため、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録されている。

近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、1877年(明治10年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた。

本殿中央に御子神(媛蹈?五十鈴姫命)が祀られ、父母神(西に御父神・狭井大神、東に御母神・玉櫛姫命)が両脇によりそうような姿で鎮座していることより、古くから「子守明神」とたたえられ、安産、育児等の神として篤い信仰がよせられている。南辺を流れる率川は、よって子守川との俗称もある。 

所在地:奈良県奈良市本子守町18

近郊に【漢國神社】(かんごうじんじゃ)があります👇

https://ameblo.jp/kazuyoshi1000/entry-12691524622.html

【漢國神社】(かんごうじんじゃ)奈良市漢国町

【漢國神社】(かんごうじんじゃ)は、奈良県奈良市にある神社である。式内小社(論社)、旧社格は県社。 園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。

推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。

貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大僧正の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より法蓮村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。

所在地:奈良県奈良市漢国町6


【漢國神社】(かんごうじんじゃ)は、JR奈良駅より300m。👇

【漢國神社】(かんごうじんじゃ)は、JR奈良駅より500m。
 

JR奈良駅は、奈良県奈良市三条本町にある、西日本旅客鉄道の駅である。駅番号は大和路線がJR-Q36、奈良線がJR-D21。


【浮見堂】(うきみどう)奈良市高畑町

【浮見堂】(うきみどう)奈良市高畑町

奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂です。  水面に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現在の浮見堂は、旧浮見堂が老朽化したために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工事によって、その美しさを今によみがえらせました。 春日大社より浅茅が原の林をぬけていくとつきあたります。

住所:奈良県奈良市高畑町1194

JR・近鉄奈良駅から奈良交通バス「市内循環外回り」・「中循環外回り(近鉄奈良駅からのみ)」・「山村町」・「藤原台」・「鹿野園町」・「奈良佐保短期大学」行き乗車、「春日大社表参道」下車、南西に徒歩4分

【洞水門】(どうすいもん)は、奈良公園の南端部、「浮見堂」で有名な「鷺池」のほとりにある小さな「音の鳴る仕掛け」です。

別名としては「水琴窟」とも呼ばれるその仕掛けは地中に「伏瓶(ふせがめ)」を埋めて空洞を作ることで、落ちる水がその中で反響して琴のような音色が周辺に響くというものです。【洞水門】(どうすいもん)は、浮見堂の南側すぐ、また観光シーズンは「貸しボート」が営業されている場所の目の前にあります。

住所:奈良県奈良市高畑町1194

JR・近鉄奈良駅から奈良交通バス「市内循環外回り」・「中循環外回り(近鉄奈良駅からのみ)」・「山村町」・「藤原台」・「鹿野園町」・「奈良佐保短期大学」行き乗車、「春日大社表参道」下車、南西に徒歩4分

【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町

【天神社】(てんじんしゃ)奈良市高畑町

「奈良町天神社」とも呼ばれる。北天満の天神社。祭神は、「少彦名命」(すくなひこなのみこと)「菅原道真公」。略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。

【天神社】(てんじんしゃ)の由緒書きがあり下記のように書かれてあります。

「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京がわが国の首都であった8世紀、平城の飛鳥とよばれた聖地でありました。
ここにまず祀られたのが国つ神の中心の1柱である少彦名命で、手間天神とよばれ医薬や学問の神としてあがめられました。
平安時代になって、奈良の菅原の地を出自とする菅原道真の名声が高まり、道真の霊を祀る天満宮が各地に奉祭されるのにともなって、ここの神域にも相殿が建てられて御霊信仰の主神であり、学問勉学の神でもある菅原道真公の霊(天満天神)が併せ祀られることになりました。
社伝によると平安時代の白河天皇の時であるということです。
その後、元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり、近世には奈良奉行や近郷の信仰を集めて現在に至りました。」

所在地: 奈良県奈良市高畑町1049

【瑜伽神社】(ゆうがじんしゃ)奈良県奈良市高畑町

瑜伽神社(ゆうがじんしゃ)は、奈良県奈良市高畑町の瑜伽山に鎮座する神社。

社伝によると飛鳥神奈備が平城奠都とともにこの地に移り、この山を平城の飛鳥山と呼んだという。もとは元興寺禅定院の鬼門除鎮守の社で、後に興福寺大乗院が山麓に建つに及び、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けた。

『大乗院寺社雑事記』明応3年(1494年)12月30日の条に、「一後智恵光院殿御建立之分(中略)今宮殿御殿 同拝殿仮葺也」とある「今宮」は本神社のこととされ、飛鳥の元宮に対して今宮と呼ばれたとされる。瑜伽神社と称するようになったのは比較的最近のこととしている。

東大寺二月堂(とうだいじにがつどう )

東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。

東大寺二月堂(とうだいじにがつどう )は、奈良県奈良市東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。

二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。

餅飯殿(もちいどの)辨財天社

餅飯殿(もちいどの)商店街に鎮座する餅飯殿弁財天社の歴史は古く、814年に弘法大師は南都皇城の守護神として興福寺南円堂の南岸に吉野天河大弁財天社より御分神を勧請、窪之弁財天社を建立鎮座をしました。この地は餅飯のお供えを調え17日の法要をお供えしたところ、この事が後の「餅飯殿町」の由来となったとされています。


同年、この地へ吉野天河大弁財天社より七弁財天神を勧請、鎮座を給わりました。神殿には、当町の町家でお祀りされていた御六座を奉祀申し上げ、残り御一座は当町内の町家に現在も奉祀しています。

奈良県奈良市餅飯殿町41

現在は、飲食店やお土産店などが立ち並ぶアーケード街で、
こちらのお社が、町の名前の由来となっています。
商店街の真ん中あたり、
スーパーがある広場の奥に佇んでいます。

【氷室神社】(ひむろじんじゃ)奈良市春日野町

【氷室神社】((ひむろじんじゃ)は、奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。

翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。

 所在地:奈良県奈良市春日野町1-4

興福寺東金堂西門跡発掘調査

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗大本山寺院南都七大寺の一つ。本尊は中金堂の釈迦如来藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。

KAZU1000